サンタマリアの鐘が鳴る。
決して祝福されることの無い。禁忌とさえされている契りを交わす2人のために密やかに。
奏でられる音色は2人への祝福か、それとも警鐘か。
向かい合い、誓いを交わす2人を見ながら、せめて自分の顔だけでも笑っていれば良いと願う。
けれどマリーアの胸はぬぐえない不安と、疲労と苛立ちがない交ぜになったような苦々しさに焼かれていたのだった。
S a n t a M a r i a
ローマのスペイン広場。
抜けるような色の濃い青空が日中の人の多い広場の上に広がっている。鳩は人が通るたびに飛び立ち、ばさばさと羽を忙しなくしている。
「明日の結婚式、止める気はないの?」
マリーアが口を開くのと、下の噴水で水柱が立つのは同時だった。
「ジュリエッタはシスターよ。私達、魔女と永きに渡る因縁を持つ教会の人間。魔女の財産を奪うために、多くの罪ない魔女を火に炙った神の御使い。教会に憎悪の炎を燃やす同胞はまだまだ多いわ。ジュリエッタの素性が露見したら、ウィッチクィーンの最有力後継者としての貴方の地位は失墜。それどころか貴方と、ジュリエッタ。そしていつ授かるかわからない子供の身はとても危険なのよ。きっと、残酷な事が起こるわ。――それでも?」
後輩の忠告を、階下で彼女に背を向けながら聞いた男の表情は、しかし微動だにしない。
「それでもだよ。マリーア・ノーチェイス。彼女の父は遠いといえどウィッチクィーン血縁者だ。ウィッチクィーンの血が手に入れば、私はより大きな力へ近づくことができる。」
「その彼女の父親が、苦肉の策で人の目を欺くために、わざわざ娘をシスターにした苦労を貴方は無にするつもりなのかしら」
「…いかなる事情も、野望のためなら踏み潰す」
「――もうっ!明日は式だっていうのに、まだ素直に告白しないつもり?筋金入りの強情っぱりの困ったチャンね〜」
ウィッチクィーンの弟子の中で最も有能とされている男を不出来な弟にように言い、腰に手をあてて呆れる。
しかしその外面に反し、マリーアの心中は寂寥にかられている。
この男は、こんな時でも、こんな重大な話をしている時も、自分に本心を見せない――。
「…まったく。」
マリーアは苦笑する。
彼女は跳ぶように階段を下りて、勢いよくルシファーに後ろから抱きついた。
「――ジュリエッタを大切にしてね。彼女は一途で頑固で融通のきかない馬鹿真面目な貴方にウィッチの掟を破らせた女性なんだから。…貴方のこれから進む道は、容赦も無く慈悲も無い険しい道よ。それでも決して後ろを向いては駄目。――貴方は数いるあの方の弟子の中で、私が唯一負けを認めることが出来る男なんだから」
唐突に背中に衝撃を受けても、男は岩のように動かなかった。
彼は腰にまかれた腕をそのままに、かすかに空を見上げるように顔をあげ、遥か遠くを見つめていた。
彼がその重い口を開き、貫禄のある重低音を響かせたのはしばらく、時が過ぎてからだった。
「……かのゲーテは正しかった。恋とは性悪なものだ。それは堕落の道だ。一度捕縛されれば逃れることは出来ず、例えそれが己を傷つけるものだと、時には滅ぼすものだと知っていても、人は手を伸ばすことを止めることは出来ない」
魔女は、密かに、唇を噛んだ。
そんなことは知っている。
だからこそ、貴方だけには言って欲しくなかった。
「アダムとイヴが口にした果実は、実はこれだったのか。確かにこれは恥を知るべきものだ。他人に知られぬなら、それに越したことは無い」
「……ずるい人」
酷い男。
ぽすっと男の背に顔を埋めて、呻くように呟いた。
否。
真にずるいのは己である。
この男が聡いのを知っておきながら、彼に向かう感情を止めることが出来ない。
無視するしかない彼は、自動的に「ずるい男」の役を演じなければならない。
他でもない自分が、彼にその役をなすりつけている。
今だって、マリーアの言葉を封じるために、彼は開襟をこじ開けられたのだ。
彼は自分のせいで、いつも損な役ばかり負わされている。
「…式の招待を受けてくれたことに感謝する」
「困ったチャンの上にお馬鹿チャンね。そんなの当然でしょう」
ルシファーの常に固い表情が、微かに綻んだ。
腕を解き、後ろを向いてマリーアと向かい合う。そして彼はマリーアのウェーブのかかった豊かな髪に触れた。
短い、法術の詠唱。
かさり。
マリーアの髪に赤い花が飾られた。
「あら珍しいじゃない!貴方が女にプレゼントだなんて、やっぱ結婚すると急に意識が…」
魔女の純粋な驚きは、しかし男の耳には届かなかった。
「――赤か。やはり君にはその色しかない。あの方の血の護り火…」
さわさわと触って楽しんでいた手を止める。
「…あの方を護ってくれ。君は何があっても、君だけはあの方を裏切るな。マリーア」
聞き返す言葉に、説明は無い。静かに歩き出した、彼の背中は遠のいていく。
――待って!
しがみついて、激しく、責め立てるように想いのたけを伝えたかった訳ではない。
ただ、一度でいい。行かないで。言葉少なに、子供のように甘えてみたかった。
実際にそうしていたのかもしれない。敬愛する、あの方の言葉が無ければ。
『マリーア・ノーチェイス。蛮を護れ』
すべての魔女の頂点に誇り高く君臨する、稀代の正統魔女。彼女はすでに遥か遠い未来に誕生する、自分の孫の名前を知っていた。
逆らえるはずもなく、逆らう理由も無い。
すべての命令の上に課せられた最優先命令。
その日からマリーアの命は、マリーア自身のものでは無くなっていた。
――魔女はこの時、一番伝えたかった言葉を永遠に封印する。
代わりに一番尋ねたかった言葉を、小さくなった背中に問いかけた。
「ルシファー。迷惑だった?私は貴方にとって迷惑だった?」
男は足を止めた。
振り向かないで答える。
「言葉の意味を理解しかねる。――だが、君はあの方も誇る優秀なウィッチだ。煩わしく思ったことは一度もない」
再び歩きだした彼は一度もこちらを振り向かず、遊ぶ子供達の脇をすりぬけて、去っていったのだった。
瞳を開けると、最高の天使とされながら堕天した魔王と同じ名を持つ男とその花嫁が口付けを交わしている姿が目に映った。
教会の座席に座っているのは二人の共通の友人であるマリーアだけである。
祝福の喝采もなく、式自体が秘め事である婚姻。それでも花嫁は幸福そうに微笑んでいる。
遠い。
自分の兄弟子と自分の友人の姿に愕然とする。
置いていかれるという、抑えきれない寂寥。そして男の隣りに当然のように立っている友人に嫉妬よりも圧倒的に温度の低い敗北感覚える。
…――自分の方が彼と過ごした時間は長かった。
自分と一緒になった方が、彼にとっての障害は少ないのに。超越者として一緒の刻を分かち合えるのに。
それでも彼が選んだのは、彼女だった。それがすべて。
飲み込むには苦々しすぎる事実。
打ちのめされる辛辣さ。
けれど同時に、肩の力がふっと抜けるような不思議な安堵感を覚える。
こうなる事はずっと前からわかっていた。納まるべくところに納まったというだけ。
自分は最初からあの男が手に入らないことを最初から知っていたのだ。
だからこそこれ程自由に、激しく、想い続けることが出来たのだろう。
厳粛なる教会の吹き抜けの天井からさんさんと降る、眼が眩むような白い日差しの中。
誓いを交わした2人は腕を組み、粛々と中央にひかれた絨毯の上を歩く。
すぐ傍まで腕を組んだ二人が近づく。
ルシファーは一番廊下に近い席に座っていたマリーアと、眼を合わせることなく、
マリーアの横を、通過した。
――貴方はいつも私に、後姿ばかり見せる。
重い音を立てて、扉は閉められた。
教会の座席にただ一人、マリーアは残される。
そして、そっと目を閉じた
ルシファー。
貴方はマリーア・ノーチェイスが恋をした最初で最後の男。
だから、つまらない運命なんかに負けることは許さない。
ジュエッリタ
白い日差しに、花嫁が持つ純白の花束を持つ貴女の姿は私の瞳を焼いた。
――貴女にはその衣装が良く似合う。けれど私は違う。
私の白は「死報星」の白。戦いの僧衣、死装束の白。
汚れない白い花も私には似合わない。私が持つのはこの…
マリーアは胸にさした花を上から握る。
――呪われたように、赤い花だ。
怒りの炎で敵を焼き尽くす華だ。
魔女は一人、不遜にも教会で決意する。
自分はこの花のように生き、あの方の足となり、腕となり、剣となる。あの方を守り、あの方の血を護っていく――。
…密かに、彼女の胸からひとひらの花びらが落ちた。
その花弁と、たった今愛を誓った二人が歩いた絨毯は同じ色であった。
end